総合案内 2022
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16創立者 中部 謙吉 (1896~1977年)学校法人幾徳学園を創立した初代理事長。公益財団法人中部奨学会の創立者。大洋漁業株式会社(現マルハニチロ株式会社)元社長、大日本水産会長、全国冷凍食品輸出水産業組合理事長、経団連・日経連各常任理事を歴任。また、大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)元オーナー、当時、球界の名物オーナーとしても知られています。創立者の父 中部 幾次郎 (1866~1946年)初代理事長中部謙吉の父。後のマルハニチロ株式会社となる大洋漁業株式会社を創立しました。漁業のほか、水産物加工、海運、造船などの経営に進出し、一大企業グループを作り上げ、下関商工会議所会頭、勅選貴族院議員ともなりました。また、世界的な経済紙「フォーブス」にて、世界の経済を作った100人のひとりとして、「幾次郎氏が成し遂げた水産事業は世界が脱帽」と紹介されています。学校法人名である幾徳学園は、幾次郎氏の徳を表現したものです。創立者・中部謙吉と大洋漁業 神奈川工科大学を運営する学校法人幾徳学園を創立したのは、大洋漁業株式会社(現・マルハニチロ株式会社)の経営者・中部謙吉である。 1896年、兵庫県明石市に生まれた。父の中部幾次郎は魚の運搬問屋の5代目。謙吉は幼い頃から父より商売の薫陶を受けて育ち、高等小学校を卒業後、父の商売を手伝うようになる。 幾次郎は漁業のほか、海運、水産物加工、造船などの事業に積極的に進出し、戦前には総合漁業企業へと成長。南氷洋の捕鯨事業へと、グローバルに拡がっていった。太平洋戦争中は所有する大型船をことごとく日本軍に接収され、事業もままならなくなる苦難の時代を経験したが、終戦と同時に幾次郎と謙吉は直ちに新会社を設立。大洋漁業株式会社として再出発した。戦後の食糧難を救った南氷洋捕鯨 終戦後、日本は深刻な食糧難の時代を迎えていた。当時日本を占領統治していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)も日本の食糧問題を憂慮し、問題解決の早道として漁業の振興を奨励していたが、終戦後の混乱期で漁業に力を入れようとする企業は少なかった。 そんな状況の中、謙吉は「広大な海洋資源により、食料の増産を図ろう」と200数十隻の船の建造計画を即決。GHQからの相談を受け、小笠原諸島海域での捕鯨を提案する。 GHQの賛同を受け、なんとか小笠原捕鯨を成功させた謙吉が次に見据えたのは、南氷洋での捕鯨事業だった。「南氷洋捕鯨を成功させれば、何万トンという食料を一度に日本へ持って帰れる。鯨油もとれるし、外貨も稼げる」と考えた謙吉はGHQにこの案を提案。GHQからの支持を受け、船・設備・食料・人そして国際問題など、さまざまな難題を乗り越えて、大洋漁業の捕鯨船団は南氷洋へと出航した。 南氷洋捕鯨事業の成功後、北洋サケ・マス漁業も軌道に乗り、大洋漁業は日本を代表する水産加工メーカーへと成長。現在のマルハニチロ株式会社として続いている。マルハニチロは、世界最大規模の水産物取扱量を誇る企業となっただけでなく、日本の食卓を支える食品メー神奈川工科大学はこのようにして産まれた

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